初めて ブルゴス と言う街に行ってきました。ガイドさんはとても親切な女性の方。写真などを準備してくれてとても分かりやすく説明してくれました。次はいつ来るか分からないけど、忘れない内にメモを残しておきましょ。
ブルゴス 到着するまでに
到着するまでに前もっていくつかの案内をします。
1.ブルゴスの歴史
歴史は古く石器時代の遺跡も見つかっているけど、下の歴史はキリスト時代から始まります。
すべては1080年、アルフォンソ6世が旧カスティーリャ王国の国王であった時代に、ブルゴスでロマネスク様式の大聖堂の建設を進めたことから始まりました。これがブルゴスのサンタ・マリア教会です。1219年にこの教会でカスティーリャ王国にとって非常に重要なセレモニーが行われました。当時のカスティーリャ国王フェルナンド3世と皇女ベアトリス・デ・スアビア(シュヴァーベン公及び神聖ローマ皇帝フィリップの娘)の結婚式です。
13世紀、ブルゴスは司教管区として、また重要な商業中心地としてその名を知られ、さらにサンティアゴ巡礼の道の通過地点となったことで、国境を越えてその名を知られることとなりました。そんな中、フェルナンド3世とベアトリス・デ・スアビアの結婚式を執り行ったマウリシオ司教が、ヨーロッパで当時流行の様式を模した新しい大聖堂を建設するよう、国王に提案しました。こうして、隣国のパリのノートルダム大聖堂に勝るとも劣らない壮麗な大聖堂が建設されることとなったのです。
司教はパリ大学で学んだため、当時のフランス建築を席巻していたゴシック芸術をよく知っていました。彼はまた、カスティーリャ国王と神聖ローマ皇帝の皇女の結婚を取り決めるために、フランスを横断して、神聖ローマ帝国へ旅をしなければなりませんでした。そうして、司教は国王との親交を利用して、スペインで最初のゴシック様式の大聖堂を建てることができたのです。大聖堂は1221年に着工しました。当時スペインでは古典ゴシックはまだあまり知られていなかったため、最初の建築家はフランス出身だったと言われています。完工は約40年後でしたが、それ以降も改築や拡張が1765年まで(後年の修復を除く)行われました。
このため、その時期に栄えた他の芸術様式の作品も所蔵しています。例えば、大聖具室、サンタ・テクラ礼拝堂、レリキアス礼拝堂といったバロック建築が生まれました。それ以前には、コンデスタブレ礼拝堂や、塔の頂上にある尖塔、シンボリオ(大聖堂の十字形の交差部の上にある塔で16世紀に現在のものに建て替えられた)といった、評価の高い建造部分も増築されていました。大聖堂は1885年に国定建築物に指定されましたが、このことが、独立戦争中のフランス軍による略奪の後の修復を助けることになりました。1984年にはユネスコの世界遺産に登録されました。
*赤ラインした人、教会見学中の登場人物
スペイン観光公式サイトから転載
2.サンチャゴ巡礼路の話
聖ヤコブ(サンティアゴ)って誰?
イエスの十二使徒の一人。サンティアゴとは聖ヤコブのスペイン語。(ラテン名Sanctus Iacobus)。紀元44年、時のユダヤ王アグリッパに迫害され斬首されたヤコブ。十二使徒中、最初の殉教者となりました。あの時代、殉教者はすぐに列聖されたため、ヤコブは聖ヤコブとなりました。
サンティアゴ巡礼の歴史
さて、ヤコブを斬首したもののキリストの復活を知る王はヤコブの復活を恐れ、その地に遺骸を埋葬することを許しませんでした。聖ヤコブの死を悼んだ弟子のテオドロとアタナシオはその遺骸をこっそり小舟に乗せ風に行く先を任せた所、たどり着いたのはガリシアのパドロンの港、イリア・フラビア。弟子たちはその地に聖ヤコブの遺骸を埋葬しましたが、時の流れの中、いつしか聖ヤコブの亡骸は行方不明になり存在も忘れされたものになってしまいました。
月日が流れ、813年(814年という説もあり)、星の導きで聖ヤコブの墓が見つけられ、その場所にアルフォンソ2世が教会を建て、カンポ(野原)とステーラ(星)を合わせた意味のコンポステーラという地名が付けられたと言われています(由来にも様々な説があります)。
中世・近世の巡礼
初めてサンティアゴ巡礼をしたのはアルフォンソ2世で、オビエドがその起点であったことから、オビエドからの道はPrimitivo(プリミティボの道)と呼ばれています。特に10世紀後半からエルサレム、ローマなどへの巡礼が困難になり、ヨーロッパの人々はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼に目を向ける様になりました。
ヨーロッパ各国とスペインを結ぶ道はローマ帝国時代に築かれていたため、その道に沿う様に巡礼路が整備されていきました。クリュニー会が中心となって巡礼者を助けるための施設や教会を次々と建設したのと、巡礼者の中にも職人が多くいて聖ヤコブに捧げる為に教会や修道院の建設に関わったため、巡礼路の発展は目覚ましいものとなり、12世紀には年間50万人もの巡礼者がサンティアゴの地を訪れたと伝えられています。
また、9世紀の聖ヤコブの墓の発見は、当時イベリア半島を支配していたイスラム教国へのレコンキスタ(国土回復運動)にも関わってきます。墓の発見はキリスト教軍の士気をあげたと共に、伝説では白馬に乗った聖ヤコブが各地の戦闘の際にキリスト教軍の応援に現れ、イスラム教軍を蹴散らしキリスト教軍を勝利に導きキリスト教を守り続けたと言われています。このことから聖ヤコブはスペインでのキリスト教のシンボルとなり、国の守護聖人と祀られるようになりました。
しかしそんな最盛期にあった巡礼路も、ペストや戦乱と言った危機がヨーロッパ全体を襲い、巡礼路にも影が差し始めます。と同時期に、巡礼の世俗化、キリスト教内の内部分裂、宗教革命後のプロテスタント諸国での巡礼及び聖人崇拝の禁止、諸聖人から聖母マリアへの信仰心の変化などがあり、サンティアゴ巡礼は次第に下火になっていくことになります。
16世紀後半にイングランドとの戦いに敗れたスペインでは、イングランド海軍による略奪を恐れた教会が聖ヤコブの遺骸を隠しその場所を失念したことから、巡礼の対象物を失くしてしまったサンティアゴ巡礼に対する人気は凋落してしまいます。
近代から現在の巡礼
行方不明となっていた聖ヤコブの遺骸は19世紀後半、発掘調査でサンティアゴ教会の祭壇下から発見されました。時の法王レオ13世がその遺骸を聖遺物として正式に認めたことで、人々は再び聖ヤコブの墓に参拝できるようになりました。フランコ政権下では、サンティアゴ巡礼はスペインをヨーロッパに向けて開き、ヨーロッパのキリスト教徒をスペインに呼び込む手段として着目されていました。
1982年のローマ法王はサンティアゴ巡礼をカトリックとして重要なものと指定し、1986年以降はオ・セブレイロの神父エリアス・バリーニャが巡礼者の為に黄色い矢印を道に描き始めた事を発端にし、スペイン各地で友の会が設立されていきました。
NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会HPより抜粋
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミーノ・フランセスとスペイン北部の巡礼路群
1993年に登録された「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」は、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラにある聖ヤコブの棺を目指す、スペイン国内の複数の巡礼路からなる。エルサレム、ローマと並ぶキリスト教徒の最も重要な巡礼地である。2015年、それまでの内陸ルートに新たに海岸沿いのルートが追加され、同時に名称も変更された。
https://whc.unesco.org/ja/list/669より引用
巡礼者 <pilgrim> の目印
大きなつばの帽子・マント・水筒がわりのひょうたんと杖・ホタテの貝殻・カバン
サンチャゴ巡礼は、エルサレム巡礼とローマ巡礼とでキリスト教の3大聖地 ←ブルゴスではない
巡礼の意味「生まれ変わること、今までの自分を捨てること」
3.エルシドの話
エルシド、と聞くと多くの人は映画を思うかもしれません。
11世紀スペインの救国の闘将エル・シドの生涯を描いた映画で、サミュエル・ブロンストンが製作。
監督は「シマロン(1960)」のアンソニー・マン。出演は、「ベン・ハー(1959)」のチャールトン・ヘストンと「ふたりの女」のソフィア・ローレン。
1961年製作/アメリカ
でもスペインでは、小学校からエルシドの英雄譚をずっと聞かされます。そのエルシドが生まれたのはブルゴスの北にある小さな町ビバール。
だからブルゴスの街にはエルシドがいっぱい。街中に銅像や彫刻がある。
中世スペインの軍人,名将。本名ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール。
Cidはアラビア語の sid (君主) が語源。傑出した野戦指揮官で,生涯にわたって輝かしい勝利を収めたところから,中世騎士物語に由来する「勝利者」 Campeadorとも呼ばれる。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%89-37713より引用
カスティリアの小貴族ディエゴ・ライネスの子。カスティリア王サンチョ2世 (強力王)のもとで軍人としての名声を不動のものとした。サンチョ2世の死後,カスティリア=レオン王アルフォンソ6世 (勇猛王)に仕えて,ムーア人との戦いで名をあげたが,王と衝突して追放された。
その後,サラゴサのムーア王国の政治顧問となり,数々の功績をあげた。
1083年王と和解が成立したがすぐに破れた。しかし,87年アフリカのアルモラビド (ムラービト) 朝のスペイン侵入対策に苦慮したアルフォンソは再び彼を側近として帰参させた。
ムーア王国におけるアルフォンソの宗主権確立に尽力したが,89年再び宮廷を追われ,以後バレンシア征服にかかった。征服後は王にも等しい地位を築いた。スペインの国民的英雄であることから,彼をテーマにした文学作品も多く,代表的なものにコルネイユの『ル・シッド』 Le Cidがある。
なんか格好いい銅像があったらエルシドだと思ってください。
ブルゴスゆかりの世界遺産は3つ
- ブルゴス大聖堂(1984)
- サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミーノ・フランセスとスペイン北部の巡礼路群 (1993, 2015)
- アタプエルカの古代遺跡 (2000)
このアタプエルカと言う街はブルゴスから15Kmの小さな小さな村。ここでのトンネル工事で発見された洞窟に骨が見つかったらしい。
この場所が西ヨーロッパでの人類の居住記録として最古で、かつ最も年代が正確に特定された遺跡で間違いない。各種の年代測定法によって110万〜120万年前のものと特定された。
ブルゴス 到着したら
ブルゴスの標高は900m 時期にもよるが基本寒いので上着を持って降りましょう
バスはアルランソン川沿いのサンタマリア橋過ぎたあたりに停車。長く停められないのでバスに帰る15分前にドライバーに電話する
サンタマリア橋の右側の橋はサンバブロ橋。この橋を渡ったところにエルシドの銅像(よくブルゴスの写真にでてくるやつ)
橋を渡って正面がサンタマリア門
この門を通り過ぎたらすぐ大聖堂前のレイ・サン・フェルナンド広場
広場にはいって右側を見るとベンチあり 巡礼者の銅像があるのでここから写真撮る
ガイドとミート
ここからはガイドさんが説明してくれるので訳せばいいんだけど、なかなか前知識がないと分かりにくかったので覚えている所だけ忘れないように書いておきましょう
細かい各礼拝堂の話はガイドブックで確認してください
スペインの世界遺産、ブルゴス大聖堂は正式名称をサンタ・マリア・デ・ブルゴス大聖堂といいます。1221年に建設が始まり、完成したのが1567年なので、実に300年以上かかって建立されました。13世紀のカスティーリャ王国の王様と司教の命令で立てられたとても大きな教会で、スペインの三大カテドラルのひとつといわれています。
また、スペインのゴシック様式の代表作ともいわれていて、内部には美しい装飾がたくさん施されています。高い天井にはたくさんの窓があり、そこから光が差し込み大聖堂を明るく見せてくれます。
入場
門の正面にはマリア様 両脇に4人の福音書を書いた人の像(たぶんサルメンタルの門(Puerta del Sarmental)自信がない)
大聖堂の中には23もの礼拝堂があるので、教会内の図をみててもどこの部屋にいるのかよく分からなかった。
- Portico del Sarmental.
- Transept, South arm.
- Door of the upper cloister.
- Chapel of the Visitation.
- Chapel of Saint Henry.
- Chapel of Saint John of Sahagún.
- Chapel of the Relics.
- Chapel of the Presentation.
- Chapel of the Santísimo Cristo de Burgos.
- Central nave and Papamoscas.
- Chapel of Saint Thecla.
- Chapel of Saint Anne or of the Conception.
- Transept, North arm and Golden staircase.
- Chapel of Saint Nicholas.
- Crossing, Dome, Tomb of El Cid and Doña Jimena.
- Chapel and Altarpiece.
- Central nave, Choir.
- Chapel of the Nativity.
- Chapel of the Annunciation.
- Chapel of Saint Gregory.
- Aisles, Ambulatory and Girola.
- Chapel of the Constable.
- Sacristy.
- High cloister.
- Cloistered chapel of Saint Jerome.
- Chapel of the Corpus Christi.
- Chapterhouse.
- Chapel of Saint Catherine.
- Chapel of Saint John the Baptist and Saint James.
- Narthex, Gate of Saint Mary.
- Gate of the Coronería.
- Gate of the Pellejería.
- Low cloister.
バラ窓が有名なのでそれは見ておく
大きさはセビリア、トレドに次ぐスペインでは3番目に大きいゴシック教会 大きさは3番目だけど美しさは1番目
19世紀のフランスの詩人は「2年かけても全部は見つくせまい、ピラミッドのように巨大で女性の身を飾るように繊細だ」と歌っている
今回のツアーはトレドに行く予定だったから「美しさは1番目」って言いにくいよね
教会の作り方とか聖歌隊が見えない聖職者席の作り方は、トレドと一緒です
1994年~2022年まで28年間修復をしていたため、今が訪れるには絶好のタイミング。教会内の建材(石灰石)が全部洗われてとってもきれいな白色がです。壁の上方一部にきれいにする前の灰色の部分が残されていて以前の色を知ることができる。
2021年が建設800年記念でいろいろなイベントを企画していたがコロナのためできなかった。
(図中22)一番有名な「元帥の礼拝室」
フェルナンド・デ・ベラスコとその妻の墓。(かっらーらの大理石で彫刻)
色とりどりのステンドグラス。星型の丸天井(コンポステーラが星の道の意味なので星をかたどったものがたくさんある)
建築家はシロエって言う人がよく出てくる。門も黄金の階段もシロエ
マグダラのマリアの絵がある ダヴィンチとの共作
(図中13.31)黄金の階段 この階段を上がったところを見てみると上部に門がある。この門を外側から見ると有名な「コロネリア門」ブルゴスは山の街。この教会も山を削って作られているので、北側の入り口は高いところにある。
パリのオペラ座の階段のモデルとなったと言われている。この門は1830年から閉じられている
(図中10)パパモスカス「Papamoscas」
毎時チャイムともにその時間の数(例えば3時だったら3回)舌を出す。パパモスカスがチャイムを鳴らす前にその右側のベルを持った天使がベルをたたく
この教会の歴史にはあまり関係ないらしいが、名物の一つ 16世紀からあったらしい 写真はデカいが現物は小さい
(図中17)祭壇とか聖歌隊の場所の木はクルミ
祭壇前の司教の足でガイドがライトを当ててくれる→アラバスタ(雪花石膏石 天然の大理石)
これどっかの教会でも出てくるよね、でもどこか忘れた
(図中15) エルシッドの墓 エルシドの墓はもともと別の村にあったらしいが、ここに引越しさせた。
エル・シッドの櫃は、南東にある回廊に面した聖体祭礼拝堂(Capilla del Corpus Christi)の上方の壁に名札(“COFRE DE EL CID”)と共に掲げてある。カスティーリャを追放されるエル・シッドが、ブルゴスのユダヤ人ラケルとビダス(Raquel y Vidas)から、お金を借りる際、担保として提供した櫃とのこと。
http://hispanista.html.xdomain.jp/ryokoki/Es2003_5.htmlから引用 ちょっと省略した
砂で満たし、1年間櫃を開けて中を見てはいけないと言って、黄金で詰まった櫃と偽ったものである。
『わがシッドの歌』には、ラケルとビダスが、利息はいいから元金だけでも返してくれるよう懇願する場面は出てくるが、返済したとはどこにも書かれていない。
不労所得者としての貸金業者への反感から返済しないことを良しとしていたのかもしれない。エル・シッドを英雄とするブルゴスの人たちの中には、返済したと信じている人もいる。
(図中24)内庭回廊
ステンドグラスでおおわれているが、これは新しい。もともとパティオを囲んでいるので内庭が見えるように作られていたが、ブルゴスは寒いのでステンドグラスを嵌めて寒さ対策をした。
あとどこの部屋か忘れたけど、ミルクをあげるマリア様 Buena Leche(良いミルク)
結構ガッツリとお話ししてくれるので見ごたえはある。
ガイドさんには予め「初めてだから簡単にね、シンプルにね」と言っておいたがけっこうどんどん話されてしまった。
最後に教会の売店。かなりきれいな売店でココにWCもあります。ここと外の広場でチョコとフリータイム、と思ったら街の商店はシエスタに入ってしまいました。
お土産
教会モチーフのエコバッグ キーホルダー 巡礼者が書かれたもの ホタテの貝殻 サンチャゴの十字架がついたもの
ブルゴス 観光後に
バスに戻り出発しますが、お客さんからの希望でエルシドの銅像がある橋を通って帰りました。
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バルの話 → スペインのバル
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